撮影日記 2004年10月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
  

 2004.10.31(日) なぜ風景か

 いつだったか、近所のお寺に遊びに行ったら、
「野鳥のカメラマンはけしからん!」
 という話になった。
 そのお寺では、アオバズクというフクロウの仲間が夏になること子育てをするが、夜中にお寺の敷地に侵入して、しかもアオバズクに向けてストロボを発光して撮影したバカモノがいるというのだ。
 また干潟に行けば、漁師さんが腹を立てていた。
 その干潟では、漁師さんのために、車が進入できる細い道が沖に向かって伸びているのだが、そこに車で進入して野鳥の写真を撮ろうとした人がいたらしい。
 僕も、同じ干潟の付近の田んぼで撮影することがあるが、鳥を待つ際に長時間同じ場所に車を止めっぱなしにすることがある。
 車を止めている場所は、もしかしたら農家の方の土地かもしれないし、公の道かもしれないが、いずれにしても野鳥の撮影に興味がない人が見れば、異常な行為だろうな〜と思う。
 よく不可解な時間が起きると、
「どこそこに見なれない車が長時間止まっていました。」 
 などという情報提供があるが、それは公の場所に長時間停車している車を、人が異常だと見ているからだろう。
 でも、そうしなければ撮れない写真もある。お寺に勝手に侵入したり、漁師さん専用の道に車で侵入するのは論外だろうが、ストロボを光らせなければ、夜の生き物の写真は撮れないではないか。
 ストロボを当てられたフクロウがまぶしくてかわいそうだという人がいて、目を痛めてしまうのでは?と心配する人もいる。その可能性はゼロではないと思う。
 でも、そんな生き物が生息しているのだから、やっぱり写真があった方がいいように思う。そして、撮影をするからには、それを発表する努力をして、何かその生き物について知ってもらう責任が、プロアマ問わずあるのかなと、何となく感じる。ちょうどペットを飼う人が、楽しい時にだけ世話をするのではなくて、面倒な時やきつい時にも責任があるように。
 スタジオ撮影も、時に残酷な行為である。葉っぱにぶら下がったカエルを撮影するのに、何度も何度もカエルを葉っぱにぶら下げる。カエルは疲れ果て、やがて動きが鈍くなり、そうなって初めて写真が撮れるのだから、僕も苦痛になることがある。
 ともあれ、いずれにしても、生き物の撮影には、そうしたジレンマが付きまとう。
 
 その点、風景は気楽だ(もちろん風景でも無茶をするバカモノも存在するが)。
 また、生き物の撮影には、いくら時間があっても足りないと感じるが、風景は逃げないので、コツコツと撮影していくと、「ここぞ!」といういい場所は、あっという間に一通り巡ってしまう。だから、今年状況が悪くても撮影できなくても、来年もまた出かける楽しみができていいじゃないか!と思う。
 僕が、こうして時々風景を撮影するのには、生き物の撮影ではでき難い、息抜きの意味もあるのだ。

  

 2004.10.30(土) ライブカメラを

「実験室に閉じこもって精力的に研究をしている。」
 などと言われると、科学者者なら、
「お〜すげぇ」
 と感じるかもしれないが、一般の人は、
「不健康で嫌だな〜」
 といった印象を受けるのではないだろうか?
 実験という言葉には、科学出身の僕でさえ、なんだか不健康なイメージが付きまとう。
 それに対して、生き物の撮影というと健康的な感じがするかもしれないが、スタジオでの撮影に関していうと、まさに実験その物で、実に不健康である。スタジオにこもりっきりで撮影をしている最中には、それがなかなか分からないのだが、スタジオから飛び出して野外で撮影をしてみると、スタジオ撮影の直後には大変に疲れが溜まっていてよろしくない。
 ちょうど1週間前の今日が、まさにそんな状態だったが、野外での撮影が続くと、日々調子が上がってくる。今日は、状況が難しくて、納得してシャッターを押した画像が一枚もない一日で終わったが、渓谷を歩くことが実に気持ち良かった。
 
 さてさて、なぜ納得してシャッターが押せなかったか?というと、僕の想定と全く異なる気象条件になってしまったからだ。昨晩の天気予報を信じて、ほぼ100%に近い雨〜曇りを想定していたところ、見事な晴れの一日になった。
 天気予報って、あんなに当たらなくていいのだろうか?
 天気を予報することもいいが、こんな便利な時代なのだから、僕は各地に、空に向けてライブカメラを設置してくれたらいいのにな〜と、よく思う。
 
 

 2004.10.29(金) 準備

 帰宅をしたら仕事がたまっていて忙しいと、昨日書いたが、同じくらい忙しいのが、出発の前日だ。急ぎの仕事を片付けておかなければならないし、出かける準備もしなければならない。
 明日から、また紅葉の取材に出かけるので、今日は、またまた慌しい。

 撮影そのものよりも準備が楽しいという人がいる。また機材を揃えて、自分なりのシステムを構築するのが楽しい人もいるだろう。
 写真撮影の中の何が楽しいかは、人それぞれではないだろうか?
 僕の場合は、まさに写真を撮っている時間が楽しい。逆に、準備をする時間などは、究極のめんどくさがり屋の僕は、苦痛に感じることが多い。

 

 2004.10.28(木) 見たことあるの?

 取材から帰宅をしたら、とにかく仕事が多い。
 撮影用に飼育している生き物の世話、新しく入ってきた仕事、次の取材のための準備・・・
 今日は、カタツムリの撮影を1つと、セミの本に関する仕事を1つ片付けた。
 セミの方は、来春出版される本の見本が送られてきたので、急ぎ目を通して気付いたことを書き込み、午前中の間に、出版社宛てに送り返した。
 
 今回の本は、都会のセミがテーマなので、背景に、なるべく多く町並みが入るように撮影した。そうした視点は、一昔前の人工物を排除する撮り方とは異なる。
 そして最近は、人工物もいっしょに写し込んでしまう撮り方が増え、珍しくはなくなったが、それでも子供向けの本に関していうと、そんな写真をメインにして構成されている本は、まだ出版されていないのではないか?と思う。
 だから、この本は、セミの背景に写った都会の風景が売り物なのだ。

 だが、僕が撮影に最も長い時間を費やしたのは、実は都会のセミの風景ではない。それは、セミの幼虫が卵から出てくる孵化の瞬間の撮影だった。孵化の写真は、クマゼミの一生を紹介するページで、とても小さく写真が掲載されるだけだが、僕はそれでもそこに時間をかけた。
 昆虫の孵化など、ありふれているとも言える。方や、都会の風景の中の昆虫の写真は新しい。だが、ただ新しければいい訳ではない。都会の生き物を撮影し、人と生き物の関わりに目をつける着眼はいいが、その前に、生き物を知る際の基本は、やはりその生き物の生活史を知ることだと、僕は考えているからだ。
 最近は、生き物の写真の背景に町が写っているだけで、評価されるようになってきた。それはいいことなのかもしれない。そうした写真を撮り、
「自然だけを見る視点は古い。これからは、人と自然の関わりだ!」
 と誰かが主張する。
 だが、僕は、違うんじゃないか?と感じる。
 例えば、ツキノワグマが里に下りてくる。そして里の風景をバックに熊を撮影する。だが、その撮影者が、もしも熊の本来の生活を見たことがないのであれば、
「薄っぺらな写真だな〜」
 と感じる。これまでの、自然だけを見る視点は片手落ちであり古いかもしれないが、人との関わりだけを見る視点も、また片手落ちであるように感じるのだ。
 ただ、人工物が写っていればいいのだろうか?

 クマが里に出没没することに関して、多くの意見が投げかけられている。僕は、その意見に関して、1つ大変に気になることがある。
 意見している人たちは、自分の目でクマを見て、そのクマを調べたことがあるのだろうか?中には、一度もクマを見たことがない人もいるのではないか?
 見たこともない人が誰かの意見を受け売りする。
 また、
「これからは人と生き物の関わりを撮る視点が重要だ!」
 と言われれば、それを鵜呑みにして、ただ町の風景をバックに生き物の写真を撮る。
 中身がないような気がする。それなら自然だけを撮った写真の方が、まだ美しい分優れているような気がする。
 
 

 2004.10.27(水) スネオ君

 山口県の熊毛町は、本州で唯一のナベヅルの飛来地として知られているが、僕がその熊毛を初めて訪れたのは、大学2年の時だったと思う。
 それから何度かツルの撮影に出かけ、その際に撮影したツルの写真は、雑誌のコンテストで佳作に入選し、味をしめてまた応募したセミの写真が銀賞、さらに翌月は野鳥で金賞、その翌月は銅賞と連続して入選し、年間でも2席に選ばれた。
「な〜んだ、簡単じゃないか!」
 と、プロの写真家になろうかな・・・と考えた最初のきっかけにもなった。

 その最初に入選したツルの写真を撮影した日は、僕の隣で撮影していたおじさんの、まるで独演会のようだった。
 大きな望遠レンズを何本も持っていて、三脚もビデオ用の目玉が飛び出るような高価なものだった。フィルムはアタッシュケースいっぱいに準備されていて、少なくとも100本はあっただろう。着ている服から車まで、まるでカタログから抜け出してきたみたいだった。ブーツは、カナダ製のマイナス40度まで耐えられるものだった。そして、ツルが飛び立つと、おじさんのカメラのシャッターボタンは、ほとんど押しっ放しになった。
 あまりに印象的だったので、今でも、僕は、そのおじさんの顔を覚えている。ドラエモンに出てくるスネオ君に良く似たおじさんだ。
 付近で写真を撮っていた人や観光客は、みんなそのスネオ君に注目した。スネオ君は、仲間と大〜きな声で話をし、
「いや〜どこそこで撮影を失敗しちゃってさぁ、それから干されちゃて大変だったんだよ!」
 などという声が聞こえてくる。時々、仲間に対する撮影のアドバイスも欠かさない。
 そして、とうとう誰かが声をかけた。
「プロの方ですか?」
 と。するとスネオ君は、
「いや〜、写真は遊びですよ。」
 と答えた。写真は遊びなら、いったい何のプロだろう?と、僕は横で聞いていて疑問を感じたが、とうとう分からずじまいだった。

 当時は、すごいな〜と驚きの目でみるしかなかった僕だが、スネオ君の撮影風景を今思い出してみると、実にお粗末で、まさにど素人だった。少なくとも、写真や映像で生活しているプロではないことは確かで、恐らくアマチュアで、ちょっと人手が欲しい時に、多少の謝礼をもらって撮影している人ではなかっただろうか?
 もしも、今僕がその場にいたら、おかしくておかしくて、多分車の中に隠れて笑い転げたに違いない。またスネオ君を、お〜と羨望の目で見ていた僕も、また滑稽だったな〜
 スネオ君が引き上げた後、はるか遠くばかりを飛んでいたツルの群れが、たった一度だけ、まともに写真に写るような近くを飛び、その時の写真が入選したのだった。
 今日はその熊毛のそばを通り抜け、15分くらい走った山口県の光市の海岸で、野鳥を撮影してみた。

 西日本のヤマメは、一般的には大きくなってもせいぜい30センチ止まりの淡水魚だが、条件が整えば、ヤマメは海と川とを行き来するサケの仲間なのでサケ並みに大きくなる。東日本では、そうしたサケ化したヤマメが比較的多く見られるようだが、西日本にもそんな場所がないわけではない。
 今日は、学生時代に僕が発見した秘密の場所へと行ってみた。体調50センチ前後の大ヤマメが、産卵のために川をのぼる最中だ。
 
 秘密の場所は、一番深い場所でも水深1メートルにも満たないので、川に入れば大ヤマメを簡単に手づかみできる。もしもこの場所が人に知られてしまえば、あっという間に獲り尽くされてしまうだろう。
 が、この場所は、滅多に人が来ない場所だし、少なくとも、ほとんど誰もこの川には興味をもっていない。最近熊の出没が多い中国山地なので、もしかしたら、産卵を終えたヤマメの死骸を食べにくるのでは?と、熊の痕跡をさがしてみたが、それらしきものはなかった。
 
 

 2004.10.26(火) 島根へ

 今日は雨が降ることが分かっていたので、鳥取県の大山で、昨日日記に登場したダイセンニシキマイマイを探したかったのだが、他にも見て回りたい場所があり、島根県まで車を走らせた。
 こちらは、紅葉の撮影には、まだ1週間くらい早いかな?という印象だ。
 西日本の紅葉は規模が小さいので、ベストのタイミングで、ベストの場所を撮らなければ、まるでただの枯れ葉でも撮影したかのような写真になる。
 そこで、早め早めに下見をして、状況を把握しておく必要があり、今日撮影した場所には、来週また行ってみたいと思う。
 来週は、中国山地の多くの場所で、紅葉がピークを迎えそうだが、だいたい来週のスケジュールが決まってきた。

 ある野鳥写真家のHPを見ていたら、強風の日に浜辺で撮影された野鳥の写真が掲載されていた。鳥たちは、群れで、揃って風が吹いて来る方向に頭を向け、風に巻き上げられた砂煙が見事な写真だった。その後、今度は雨の日に撮影された雨粒が写った野鳥の写真を見かけた。
 そうした気象条件を上手く生かした写真は、すばらしいな〜と思う。
 
 土曜日からの晴れが、今日は一転して雨になったが、撮影には、晴れの日がいい場所もあれば、雨の日が適する場所もあるので、いろいろな天候にめぐり合えることはいい。

 

 2004.10.25(月) オタク道まっしぐら

 鳥取県の大山は、今標高500メートルくらいの地点が、紅葉の真っ盛りだ。その大山に因んで、今日はオタク道まっしぐらといった話題から入りたいと思う。
 6月27日に画像を掲載した巨大なカタツムリは、帰宅後に名前を調べてみた結果、恐らくダイセンニシキマイマイであろうと思われる。
「なんて素晴らしい名前だろう!」
 と、僕はその名前を知ったときに、大変に感激した。
 大山は、僕が考える西日本一の山だ。僕は、四国と奈良〜三重あたりを除いて、ほぼ日本全国を車で走ったことがあるが、「お〜」と神々しさを感じるような山は、なんといっても大山なのだ。高さでいえば、東日本には岐阜〜長野あたりに高い山はたくさんあるが、大山には、手付かずの荒々しさというか、素朴さというか、観光地化されない深い魅力がある。
 そして、僕がみつけた大山の付近に生息する巨大なカタツムリが、ダイセンを名前に冠するのだから、感激しない方がどうかしているだろう。

 今回は紅葉の撮影がメインではあるが、もしも雨が降ったなら、是非ともダイセンニシキマイマイを捕まえたいと意気込んで自宅を発った。あいにく、3日続けての晴れの天気で、カタツムリを探すことができる状況にはならなかったが、今日は撮影で訪れた滝の付近で、その死骸を発見した。
 益々、大山に対する憧れが・・・

  

 2004.10.24(日) 下見

 スタジオでの撮影が続いたあとに野外に出かけると、いつも最初の1〜2日がとてもきつい。
 朝は眠くて目がさめないし、歩くと足が重たいし、HPを更新しようとすると、書くことがなくてパソコンの前でただただ時間が経過してしまう。
 今回も例外ではない。昨日は岡山県までただ運転をしただけ。今日は、ちょっと寝坊気味で、イマイチ写欲も湧いてこない。
 そんな時は、以前は昼寝をして過ごしたが、最近はちょっと大人になったので、「今できることをやっておこう!」と、行ったことがない場所を下見することにしている。
 今日は、初めての渓谷を、いくつか歩いてみた。

 僕は、風景の写真を撮る時も、生き物の写真家でありたいという気持ちが心の中にある。僕は生き物の写真家なんだ!という誇りというか、意地というか、とにかくこだわりがある。
 だから、一見風景を写したように見える写真でも、実は、植物を撮ろうとしていたり、魚の生息環境を撮ろうとしているようなことが多い。とにかく、何か生き物に関するメッセージを伝えたいのだ。
 が、今日の画像は、調子が上がらなかったこともあり、
「あ、光があたっている。」
 と、ただ、その場の風景を切り取っただけであった。多少なりとも訓練を積んだ人が撮れば、そんな撮り方でも一応体裁が整った写真は撮れるだろう。だが、やっぱりそんな表面的な体裁だけを整えた写真は面白くないなぁと、自分で画像を掲載しておきながら感じる。
 構図だとか、光の使い方といった技術は重要ではあるが、それ以前に、撮影者の被写体に対する思い入れが大切なのだ。
 
 

 2004.10.22(金) 白バック

 生き物を白い紙の上において、初めてスタジオで撮影した時、僕は
「面白い!」
 と、感激した。背景がシンプルな白だと、生き物の模様や色が際立って見える。
 だが、他人が撮影した白バック写真を見ても、
「所詮、ただ紙の上に置いて撮っただけじゃない・・・」
 と、僕はあまり面白いとは思わない。
 写真を撮っている本人にとっては面白いが、大部分のそれを見る人にとってはイマイチ面白くない写真がある。HPの中であれば、僕の解説つきなのでまだ楽しめても、それが印刷物の中にさり気なく掲載されると、白バックの生き物の写真に心を動かされる人は、ごく一部の人だろう。
 少なくとも、
「これ誰が撮ったのだろう?」
 と、それを撮影した人に対して、鑑賞者が興味を感じることはほとんどないだろう。
 つまり、白バックの写真は、何か自分の主張をするための写真ではなくて、生き物を単純に説明するなど、本の中に使用される素材に過ぎない。そうした写真には、それが撮影中にどんなに楽しかったとしても、のめり込みすぎてはならない。「これは、武田晋一の作品なのだ!」ではなくて、「この写真は、本作りをするための素材なのだ!」という意識を強く持たなければならない。
 ここのところ連日撮影してきたメダカの飼育の本は、白のバックで撮影する写真が大半だが、その素材として撮影された写真を、いかにレイアウトして、どんな本を作り、何を見る人に分かってもらいたいのか、撮影をしながら、僕は何度も何度も自分に確認をしなければならなかった。
 さすがに、ちょっと一息つきたくなった。明日からは、岡山〜鳥取の山間部で撮影をする予定だ。

 

 2004.10.21(木) 山を乗り越える

 メダカの飼育の本の撮影に、ようやく目処がたった。今週末からは、渓谷と紅葉の撮影に出かけることができそうだ。
 今日は、メダカの生息環境で見られる他の生き物の撮影で、アマガエルを撮影した。まだ、他にも撮らなければならない写真が残っているのだが、あとは、慌てなくてもいい写真ばかりで、冷静に、効率よく撮っていけばいい。
 今シーズンの仕事の、最後の山を乗り越えることができた。
 
 さて、渓谷と紅葉の撮影だが、山は台風で大きなダメージを受けているだろう。が、僕の撮影はそれでもいいと思う。
 渓谷と紅葉の写真を売りたいのであれば、紅葉の当たり年に、明るくて爽やかな写真を撮らなければならないが、僕は渓谷の写真を売りたいとは思っていないので、渓谷ではあるがままの自然の姿を写真におさめたい。
 台風の爪あとも、僕が撮りたいものの1つなのだ。ニーズに応える写真も、それはそれで楽しいが、自由奔放に撮る写真もまた楽しい。
   
 

 2004.10.19(火) 盆栽

 爺くさいと、笑われてしまいそうだが、盆栽をやってみたいなぁと、考えることがある。
 盆栽といっても、多くの人がイメージする松や杉ではなくて、クスやエノキなど、広葉樹の盆栽を持ってみたい。
 
 さて、飼育下のメダカは、ホテイアオイやウォーターレタスの根っこに、よく卵を産みつける。また、そうした水草は、恐らくその根っこから水中の栄養分を吸収するだろうから、メダカの糞が分解された結果生じる窒素を含んだ物質も吸収してくれることだろう。
 浮き草の仲間は、産卵床になり、同時に水の浄化の役割も果たすので、メダカの飼育にはいい。
 ところが、撮影の材料としては、ホテイアオイにしてもウォーターレタスにしても、かなり大きくなるので、水槽にそうした水草を浮かべてメダカと一緒に撮影しようとすると、メダカを大きく写したら、植物は根っこしか写らないことになる。
 すると、その根っこがいったい何なのか、見ている人は分からないし、強大な根っこは時にオドロオドロシイ印象を与える。根っこが、まるでホラー映画・リングの中に出てくる貞子の髪の毛のように見えるのだ。
 そこで今回、僕は、まるで盆栽のように、ウォーターレタスのミニチュアを作ることにした。
 本来であれば人の握りこぶしよりも大きくなり、根っこは30センチほどの長さにもなるウォーターレタスを、500円玉くらいの大きさで、根っこもせいぜい5センチくらいになるように、成長の具合を調節してやるわけだ。
 先月から準備してきたウォーターレタスの盆栽が、今日は大活躍だ。

 

 2004.10.18(月) 運が!

 トンボの採集に出かけた。昨日に引き続き、メダカの生息環境で見られる他の生き物たちの撮影だ。
 以前にも書いたが、今回は、画像の中から被写体の部分だけを切り抜いてから使用する。したがって、まずは生き物を捕まえて、スタジオ内で無地のバックで撮影しなければならない。
 そして、今日はトンボの順番が回ってきたわけだが、僕が考える一番カッコイイ奴は、オニヤンマだ。
 だが、オニヤンマを今の時期に採集するのは100%不可能ではないものの、シーズンオフであり難しいだろう。
 そこで、代わりに赤トンボを採集することにした。カッコよさでは一歩譲るが、画面の中に赤が入れば、デザイン的には美しくなることだろう。
  時間は午前11時頃。ちょうどこの時間帯に、交尾をした赤トンボが湿地に産卵にあらわれるのだそうだ。教わった通りに出かけてみると、ツガイでつながったトンボたちが、たくさん飛んでいるではないか。さっそくきれいなオスを3匹ばかり採集して、帰宅をすることにした。
 だいたい僕は採取に出ると、夢中になり過ぎて予定の時間を大幅にオーバーしてしまうことが多い。その結果、撮影の時間が短くなり、肝心の写真が・・・という傾向があるので、目的のトンボの採集を終えると、グッと抑えて車に向かう。
 すると、目の前に大きなトンボが一匹やってきた。
 何気に網を振ると、実に簡単に網に入った。ギンヤンマだった。
 赤トンボの撮影計画は、ギンヤンマになった。やっぱりヤンマはカッコイイ。何だか巡り合わせが良くなってきたようだ。
 
 

 2004.10.17(日) 穴場?

 メダカの飼育の本の中には、野生のメダカとその周辺で見られる生き物たちのページがある。
 ザリガニやヤゴやドジョウや・・・いろいろな生き物が登場するので、昨日採集に出かけた。
 ヤゴはコオニヤンマのヤゴと、種類は分からないが、触るとコロリと死んだふりをするヤゴを採集した。また、ドンコなどの魚や貝類も捕まえた。
 いつも、意外に苦労させられるのはアメリカザリガニだ。大きくてカッコイイ奴は、それだけ長生きしているわけだから、体の隅々に頑固な汚れが付着していて、よく見ると実に小汚い。何とかしてきれいな奴をと探すが、いつも、獲っても獲っても大きなものはどれも汚い。
 リアルにザリガニを撮りたい時には、小汚いザリガニがいい。だが、ザリガニの写真の需要の多くは、きれいでカッコイイザリガニなので、一般的な撮影のモデルとしては、小汚い奴は適さない。特に今回のメダカの本のように、写真を切り抜いてそれを貼り付けて、デザインの面白さで見せる本には、きれいなザリガニがいい。
 そこで、今日はちょっとした思い付きで、ペットショップに売られているザリガニを物色しに出かけた。今時、ザリガニは熱帯魚の餌として大量に売られているのだ。
 
 お店に行ってみると、大きなものはいないが、汚れのない実にきれいなザリガニばかりが容器に寿司詰めにされて売られている。そこで、
「この中から好きなザリガニを選ばせてもらってもいいですか?」
 とたずねると、これは餌目的ではないな!と察した店員さんが、
「いったい何に使うのですか?」
 と話しかけてきた。
「写真撮影用なんです。」
 と答えると、
「それならでかい奴がいいでしょう!向こうに巨大な奴がいますよ。」
 と、樽のような容器の方へと案内された。容器の中にはたくさん流木が沈めてあり、流木の間に大きなザリガニたちの影が見える。
「でかくて、赤くて、あまり汚れがついていない奴・・・」
 自然条件下でも、これ以上大きなものはいないだろうな〜と感心するほど大きなザリガニだが、飼育下なので全く泥などがこびりついていない。早速購入してかえり、撮影してみた。

 きれいなザリガニを常に飼育しておき、いつでも撮影に臨めるように準備しておくのがベストだが、ザリガニは喧嘩をするし、一匹飼いをしなければヒゲや足が取れてしまうので、カタツムリと違って飼育には広い場所が必要である。
 その結果、いつも撮影の直前に、「いいザリガニは・・・」と網を持って探し回ることになるが、まさかペットショップが穴場だったとは・・・
 
 

 2004.10.16(土) 区別

 撮影のモデルとはいえ、生き物をたくさん飼育して世話をするのは大変な作業である。だが、ここ数日は、事務所に到着して、最初に飼育室のドアをあける瞬間が楽しい。先日購入した色メダカが水槽の中を泳いでいるからだ。
 ペットは基本的にはあまり好きではないはずだが、やっぱり見るのが楽しいし、餌を与えるのも楽しい。
「お〜、食べてる食べてる。」
 と、メダカが餌を食べるのがなぜ嬉しいのか自分でも理解できない部分があり、他愛ないな〜と、思うが、楽しいのだから良しとしよう。
 購入した色メダカのうちの、白メダカとクリームメダカは区別が出来ないと先日書いたが、訂正しなければならない。メダカがこちらの水に馴染み本来の体色を現したのか、区別ができるようになった(恐らく写真では区別不能。特にデジタルでは)。
 僕は白メダカを4匹、クリームメダカを4匹注文したが、同じ袋に入れられて送られてきたので、何となく白っぽいものと、ちょっと色が付いているような気がするものとを分けて、別々の容器に入れておいた。
 すると、「ほとんど区別が出来ない」と日記に書いていたにもかかわらず、正しく分けることが出来ていた。メダカ屋さん、失礼しました。
 メダカの本の中には、野生のメダカと似た環境で見られる小動物が登場するページがあり、今日は、網を持って川に出かけてみた。
 
 

 2004.10.15(金) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2004.10.14(木) なるべく自然に

 昨日の色メダカが揃って泳いでいる画像は、一枚の写真の中に4匹のメダカを同時に写し込んだものであり、メダカを一匹一匹別々に撮影して、それを合成したものではない。
 もちろん、4匹のメダカを別々に撮影した上で4枚の画像を合成しても、同じような絵が得られるだろうが、やはりメダカが自然と並んだ時の並び方には何か意味があるだろうし、僕はもしも可能なら、その方が望ましいと考える。
 これは、学生時代に高知大学の連中が学会発表をしたものの受け売りだが、メダカをワッと驚かせると、オスとメスとで逃げる方向が違うのだそうだ。細かいことは忘れてしまったが、例えば、オスが右に逃げるのなら、メスは左に逃げるといった具合だ。
 僕には思い当たることがある。
 メダカの群れのなかに網を突っ込んで採集すると、時にオスばかりやメスばかりが獲れることがある。もしかしたら、何かの具合で性比の偏った群れであった可能性もあるが、一方の性別のメダカがみんな同じ方向に逃げ、それが僕の網に捕まってしまった可能性もあるだろう。
 生き物の世界には、どんなルールがあるのか計り知れないのだから、なるべく自然であった方がいいというのが、僕の意見だ。
 
 さて、4匹を同時に写しとめようとすると、4匹の並び順、配置、ポーズ・・・ 自分で試してみたらよく分かるが、なかなかきれいに並ぶものではないし、ただ単に、メダカを4匹写し込むだけでも、それなりに難しい。昨日の画像も、恐らく多くの人の想像を軽く超えるくらい、たくさんのシャッターを押し、その中から選び出したものだ。
 メダカを容器に入れ、そっと待てば4匹が接近することもあるが、それではただメダカが容器の底に並んで沈んでいるだけで、躍動感が感じられない。やはりいい写真は、泳ぎ回っているメダカの一瞬を捉えたものだった。昨日の画像に限らず、10日の画像も、11日の画像も、みんなそうだった。
 そして、そのためには、たくさんのシャッターを押さなければならない。
 今日は、野生のメダカを撮影した。野生のメダカというと、小さくて黄土色の地味な魚を想像する人が多いが、大きなものは4センチ程度になるし、ヒレにはオレンジ色がにじみ、うちの事務所で初めて野生のメダカをよく観察した人には、
「え!こんなに大きいの?こんな色がついているんだ!これがメダカ?」
 と、驚きの声をあげる人が多い。

 

 2004.10.13(水) 色メダカ

 野生のメダカとヒメダカと、どちらが撮影をして楽しいか?というと、僕は野生のメダカの方が好きだ。
 たとえ水槽の中であっても、野生の色彩には、人の意志や改良が加わった生き物が到底及ばない何かがあるように、僕には感じられる。
 それでも、
「ヒメダカの方を撮ってください。」
 という依頼なのだから、仕方がない。ただ、仕方がないという気持ちで撮ると、いい写真は撮れないので、相手の依頼の中に、自分なりのテーマを勝手に設定する。昨日、ガラス容器を大変にこだわって撮影したが、そのこだわりも、今回僕が設定したテーマの1つだ。

 さて、今日は、ちょっと学術的な側面にも、こだわってみようと考えた。
 メダカは何といっても代表的な実験動物である。ヒメダカも、今や金魚のような扱いを受け、ペットだといっても差し支えないが、メダカの体色の遺伝という生物学的な視点もある。
 実は、メダカにはオレンジ色のヒメダカの他に幾つかの色の変異があるが、ヒメダカが圧倒的にポピュラーであり、僕はこれまで他の色のメダカを見たことがなった。そこで、インターネットショッピングで、クリームメダカと白めだかと青メダカを注文してみたのだが、それが今日届いた。
「どんな色なんだろう?」
 と、なかなかドキドキして、そんな買い物もたまにはいい。
 編集者から渡された絵コンテには、色メダカのページはなく、僕が勝手に撮影しているわけだから、写真を使ってもらえる保障はないし、自腹(色メダカ300円を12匹+送料1500円=5100円)を切ることになるが、色メダカを目にしたことで、色付きのメダカを撮影するはめになったことが、突然に面白くなった。それで良しとしよう。
 ついでに、クリームメダカと白メダカは、僕の目では判別不可能。これは完璧にオタクの世界だ。


 今回のメダカの本は、メダカの部分を写真の背景から切り抜いて使用する。だから、切り抜きができるように撮影しなければならない。
 したがって、僕は白のバックで撮影しているのだが、白メダカを白のバックで撮ると、ヒレが背景に溶け込んでしまい、ヒレの形がわからなくなる。
 仕方なくグレーで撮影してみたが、グレーが濃すぎると、ヒレは半透明だからヒレに背景の灰色が濃く透けて見えてしまい、切り抜いた時におかしな色になる。
 陸上で、しかも動かないものであれば、白のバックでも、照明で何とかヒレを浮き上がらせることも可能だろうが、水中でチョコマカ動き回る被写体では、それはほぼ不可能だ。
 何でもない撮影だが、思いがけず難しくて、苦戦する。

 今日の一番の上の画像だが、上が野生のメダカ、下の列は、左からヒメダカ・青メダカ・白メダカだ。

 

 2004.10.12(火) 写真嫌い

 何かの本の中で、写真家の立木義浩さんが、
「写真家には写真嫌いの人が多いけれども、俺は写真が好きし、暇さえあれば写真を撮っている感じだよ。」
 と、書いておられた。

 写真家には写真嫌いが多い
 僕は、その一文を読んで、すぐに意味がわかったが、恐らくほとんどすべての読者には、意味がわからなかったことだろう。
 自然写真の世界では、会社員でありながら、純粋に写真だけで生活しているプロとなんら違わないレベルの写真を撮り、出版の世界で活躍しておられる方も少なくないし、プロもアマもないような気がするが、それでもプロにしか分からない領域があることは確かで、立木さんの写真家には写真嫌いが多いも、やはりプロにしか分かりにくい言葉だと思う。
 それは、多くのプロカメラマンが、自分が専門とする被写体だけを撮影し、他の被写体を撮ろうとはしない、或いは仕事では写真を撮るが、プライベートでは撮りたがらないことを指している。
 自分自身のことを考えてみると、僕も、写真家には写真嫌いが多いに、当てはまるように思う。
 ただ、たくさん写真を撮ることで、写真そのものにも次第に興味が湧いてくる部分もある。生き物ではない被写体でも丁寧な写真を撮りたいな〜と、僕は最近は感じるし、その時間も楽しくなってきた。が、それでも、それはギャラをもらえる仕事の範囲での話なので、基本的には写真嫌いなのだと思う。

 さて、メダカは水草や浮き草の根っこなどに卵を産み付けるが、その卵は、ほとんど親に食べられてしまうので、水槽内では滅多に増えることはない。そこで、メダカを増やしたい人は、卵が付着した水草を別の容器に隔離しなければならない。 
 今日は、そんなシーンを撮影したのだが、浮き草の葉っぱの質感や、ガラス容器の透明感を最大限に引き出すような撮り方をしてみた。
 それは、単にメダカの飼い方を説明するには、過剰なくらいの凝り方であり、大半の自然写真家はそんな面倒なことをしないが、僕は、今回のメダカの本を、手に取ることができるかのような質感で撮りたいのだ。

 

 2004.10.11(月) ヒメダカの顔

 魚のムナビレは、左右非対称に動くのだろうか?
 今日は、メダカの顔を正面から撮影したが、左右のムナビレが、共にきれいに広がった状態で写っている写真が一枚もなかった。
 
 水槽内で魚の顔を上手く撮影するのは、実は大変に難しい。水槽の場合、ガラスに対して斜めの方向からカメラを構えても、中の魚が歪んで写るので、カメラを向ける向きが制限されてしまう。
 したがって、僕が魚の顔の正面に移動をするのではなく、魚が僕の方を向いてくれるのを待つ他はない。
 大きな魚の場合は、まだいいが、メダカくらいの小さな魚をUPで捉えるとなると、その確率はとても低い。
「あ、こっち向いている」
 と、カメラを向けてみても、上の画像のように若干横を向いていることが多い。今日の画像は、これはこれで、またいい味があると思うが、とにかく何か感じさせてくれる表情の顔を撮影するためには、かなりの枚数を撮らなければならない。今回僕はヒメダカの顔を百枚以上撮影したが、表情が写っている写真は、ほんの数枚しかなかった。
 だが、その程度の枚数で気に入った写真が撮れるのはまだいい。これはデジタルカメラのお陰である。
 シャッターを押し、すぐにその場で画像を確認できるので、どんな方法で、どんなアングルから撮ったら表情豊かに写るのか、僕は、その場で学習をすることができた。今回、ヒメダカを撮ってみて感じたことだが、ジ〜ッとこちらを見ているヒメダカの顔を写しても、なかなか生き生きとした写真が撮れない。メダカがクルツと向きを変える瞬間や、オス同士が喧嘩をしたり、オスメスが求愛をしている最中など、やはり、その中の一瞬なのだ。

 よく考えてみれば、これは何もメダカの撮影や、顔の撮影に限ったことではない。
 例えば、野鳥の撮影でも同じ。今の時期なら干潟にシギやチドリの姿が見られるが、じっとしている野鳥をどんなにしっかり写しても、デジタルカメラの登場で、被写体が技術的にきれいに写っていることは、今やアマチュアでも当たり前になった。
 写真撮影が簡単になった結果、写真術よりも、撮影者が何を見て、何を伝えたいのかが大切になってきたのだと思う。
 
 

 2004.10.9〜10(土〜日) ヒメダカ

 今回撮影するメダカの本は、野生のメダカではなくて、ヒメダカというペットショップに売られているメダカをモデルにする。
 ヒメダカは、野生のメダカの中に生まれる黄色っぽい突然変異を人の手で繁殖させたもので、野生のメダカをモデルにして飼育の本を作ると、まるでメダカの乱獲を推奨しているみたいだという注文がつき、ヒメダカの方を撮影することになった。

 撮り方は、今日の画像のように背景を入れずに撮り、そうした画像を素材として本の中に貼り付けるようにしてページを構成する。
 もしかしたら、今日の画像を見て、
「何だかリアルすぎて、グロいな!」
 と感じる人がいるかもしれないが、そう感じた人は鋭い。その通りである。こうして撮ると、まるでまな板の上の魚のように見えるから、グロくなる。
 だが、たくさんの画像を上手くページ上にレイアウトすれば、グロさが消え、面白さが生まれる。したがって、デザインやレイアウトによって、できが大きく左右される本になるだろうし、いいデザインの本にするためには、撮影者が、多少はデザインの段階のことまでもを頭に入れておくことが大切だ。
 今回僕は、自分が撮影した画像を見ながら、そのページの絵を描いてみて、デザインとしてしっくりくるかどうかを確かめながら撮影を進めている。
 ところが、絵を描くことを、僕は本来好きではない。だから、誰かスラスラと横で描いてくれればいいのに・・・と、今回は感じる。
 絵は下手糞でいいのだが、やはり、それを描く人が楽しんでいることがイメージを高めるために大切だろう。日頃究極に付き合いが悪い僕だが、こんな時は、美術関係の人とまめに付き合って・・・などと、つい考えてしまう。
 
 

 2004.10.8(金) 蝶の飛ぶ風景

 9月の中頃から苦しんできた無気力症候群から、ようやく完全に立ち直ったようだ。いつもそうだが、ただ時間だけが解決してくれる。
 多くの小動物の場合、シーズンはやはり春〜夏にかけてなので、例年であれば秋のこの時期にエンジン全開で撮影することは少ないが、今年はメダカの飼育の本が残っているので、もう一度忙しい時間を過ごさなければならない。これが今シーズンになって作る4冊目の本になる。

 今年は、ほとんどすべての撮影で、デジタルカメラとフィルムカメラを併用した。
 併用というのは、デジタルとフィルムを使い分けたという意味ではない。同じ被写体を、まずデジタルで撮影してから、カメラを持ち替えて、フィルムでも撮影した。
 先にデジタルで撮ってみた結果、昨年までであれば気付かなかったようなライティング(照明)のミスやその他を事前に確認することができ、結果的にフィルムでも、効率よくいい写真を撮ることができた。今までなら、現像結果を見て撮り直しというケースがあったが、今年はそれが一度もない。
 もしも、今年デジタルカメラを持たなかったなら、恐らくすべての仕事を納得できるレベルで終えることは出来なかっただろう。技術の進歩に感謝しなければならないし、やはり物はいかに上手く使うかが重要だ。

 デジタルは便利だな〜と感じた一方で、
「フィルムでも、もっともっと撮れるぞ!」
 と思うようにもなった。フィルム代を気にせずにすむデジタルカメラで次々とシャッターを押してみると、
「あ、こんな撮り方で、こんなに簡単に撮れるんだ!でも、それならフィルムでも同じように撮れるなぁ」
 と、何度も何度も感じた。今まで、フィルムが無駄になることを恐れて冒険が足りなかったのだ。
 また、すぐに結果を見て、それを次の撮影に反映できるデジタルの方が上達が早く、デジタルを使うことで僕の写真が多少上手くなったとも言える。
 だから今度は、もう一度、フィルムを使いこなしてみたいなとも思う。

 例えば、昆虫写真の海野先生の蝶の飛ぶ風景という写真集を、僕は最近よく眺める。蝶の飛ぶ風景は広角レンズで蝶にぐっと迫り、風景の中を飛んでいる蝶をまとめた写真集だ。そうした撮影には、一般的に言うとデジタルカメラの方が有利である(理由の説明は省く)が、この写真集はすべてフィルムで撮影されている(当時はフィルムしかなかった)。
 そして、蝶の飛ぶ風景を見ると、
「この道具で十分じゃない。それ以上の道具は要らないのではないか?」
 とさえ感じてくる。新しい道具が出来でも、蝶の飛ぶ風景が全く古く感じられないのだ。むしろ、フィルムならばでのいい緊張感があるような気がする。

 

 2004.10.7(木) パソコンで

 今日はパソコンに向かって作業をしているのだが、僕はそうした作業では仕事をしたという満足感がどうしても得られない。 なんだかサボっているような気がして、どうも気持ちが落ち着かない。本当は原稿を書いたり、写真のデータを整理する時間も、大切な仕事の一部のはずだが・・・
 理屈ではそう思っていても、感覚的なものなので、どうしようもない。
 撮影量が多い日が続くと当たり前に疲れるが、それでも何だかんだ言いながら、写真を撮っている時間が一番落ち着く。
 
 

 2004.10.5(火) 山口へ

 メダカの生息環境を撮影するために、山口県のビオトープに出かけることにした。学生時代6年間を過ごした山口だからだろうか、懐かしくて、何となく嬉しい。
 以前にトンボを撮影したことがある場所だが、改めてみると、メダカの撮影にも実にいい場所がある。ただ、トンボを撮影した日には、頭の中がトンボ・トンボ・トンボ・・・となっていたのだろう、不思議なくらいにメダカの姿を見ていない。
 今シーズンは、もう秋になり水辺の植物が枯れ始めているので、野外でメダカを撮影するのは遅すぎるようだが、次の機会にはたくさん写真を撮りたいと思う。

 僕のように、水中から野鳥までいろいろな物を撮ろうとすると、視点の切り替えが難しく感じられることがある。野鳥を探す目では昆虫はなかなか見つからないし、昆虫を探す目では、絵になる風景がなかなか見えないことがある。
 逆にいい効果もあり、風景を撮るようになって以降、虫を撮っていても、いい画面構成がサッと目に飛び込んでくるようになった。 

 

 2004.10.4(月) やっと

 ここのところ無気力症候群に取り付かれていた僕だが、ようやくメダカの撮影にのめり込んでいけそうなイメージが湧きつつある。今回のメダカの撮影は、メダカの一般的なことを説明する本ではなくて、メダカの増やし方を紹介するための本だ。
 したがって、いつもなら水槽内に小さな自然を再現して、その中で、メダカを自然っぽく撮影するところが、今回はそうではなく、水槽ごと撮影して、
「こうやって飼うんだよ。ほらメダカが増えたよ。楽しいでしょう!」
 と、その気にさせるための写真を撮りたい。
 今回僕が重視するのは、シンプルで、そしてシンプルであるゆえに美しくて、わかり易い本を作ることただ一点だ。

 何かを伝授することを目的とした教科書的な本を作ろうとすると、日本の出版物よりも欧米の出版物に、いいお手本が多い。
 多くの民族が住む欧米では、日本のようにあうんの呼吸で分かり合うのではなくて、自分の思いを適切に相手に説明できることが大切であろう。したがって、欧米人は、相手に何かを伝えることに関しては、日頃から、日本人よりもずっと鍛えられているはずだ。その差が、本の中に見事に現れているように僕には感じられる。
 今回のメダカの本は、僕にとって、仕事というよりもチャレンジなのだ。

 日本の規格にないような本を作ってみたくなったのだから、日本のやり方に毒されすぎている編集がパートナーだと都合が悪い。そこで、僕の知る範囲で最も型にはまらないSさんに声を掛けてみたら、企画を通してもらうことができた。 
 
 

 2004.10.3(日) 何かのついで

 ここのところ、撮影済みの写真を出版社に送る機会が何度かあったが、いずれも、フィルムとデジタルとの併用で、写真とCDとをいっしょに同封して送った。
 中には、全く同じシーンをフィルムでもデジタルでも撮影したケースもあるが、フィルムがいい結果を生む時もあれば、デジタルがいい結果を生むこともある。
 一長一短である。
 ただ、デジタルの方が、いろいろな物を撮ってみようという気になることだけは確かで、僕の場合、デジタルカメラで撮っている時の方が、フィルムで撮っている時よりも10倍くらい多くシャッターを押している感じがする。
 
 さて、今シーズンは、カタツムリをたくさん撮影しているが、依頼された写真の中には、
「あ〜日頃何かのついでに撮っておけば良かったな!」
 と感じるシーンも多かった。
 例えば、今日の画像のような、カタツムリが逆さまに歩いているような写真は、他のシーンを撮影するついでに撮ろうと思えば撮れる機会がたくさんある。が、フィルムだと、何だかそんな気になれなくて、求められたシーンだけを撮り、その後、
「カタツムリが逆さまに歩いている写真を・・・」
 なとと注文が来て、わざわざそのための撮影することになる。
 ついでなら1分もかからないところが、わざわざ準備をすると、1時間近くの時間を要する。
 ところが、デジタルカメラを使うようになって以来、気がついたら、今求められているシーンの周辺の写真もたくさん撮る傾向にある。
 さらに、全く動かない被写体を、全く同じように何枚も何枚も撮ってしまうこともある。要するに、ただシャッターを押しているだけなのだが、
「シャッターを押すことって楽しいんだな〜」
 と、今更ながら気がついたのだ。
 僕が使用しているニコンのD70は、今や10万円以下で売っているところもあるし、パソコンも、画像を扱えるだけの十分なスペックの物が、7〜8万円でも買える。
 すごい勢いだな〜と、しみじみ思う。
 マミヤからは、2200万画素のデジタルカメラが発表された。噂によると、100万円以下で、35ミリ判フィルムよりも大きなセンサーを使用しているらしいので、ちょっと興味がある。デザインもなかなかカッコイイ。
 
 

 2004.10.1(木) 催促

「なんだか調子があがらないな〜。」
 と、昨日ゴロゴロしていたら、電話が鳴り、鬼のような声が・・・
「写真はまだなの?」
 と、フィルムの催促だった。9月末日が期限の仕事だったが、東京へ現像に送ったフィルムがなかなか返ってこなくて、前日にやっと僕の手元の届いたばかりだったのだ。
 慌てて飛び起きて届いたばかりの現像済みのフィルムの箱を空け、写真に目を通し、写真を選び出し、梱包して宅配屋さんに車を走らせる。
 ゴロゴロなんていい身分だなと思われるだろうが、僕はそうしている時間が一番辛い。そんな時は、どうしても気力が湧かない時だからだ。が、催促の声を聞いた途端に、気合が入った。
 ここのところの無気力は、忙しい時期を乗り越えた達成感と、その反動なのだろうなぁ。
 昨日宅配で送った写真は、無事今日出版社に届き、これで大体その仕事が終わったと判断しても良さそうだ。
  
 あとはメダカの飼育の本だけが残った。先日、ようやくその仕事の、本格的な撮影に取り掛かった。
 すでに、春の段階で多少撮影を進めてはいたのだが、ちょっとした変更があり、撮りなおすことになった。ただ、撮り直しをすると、大抵は新鮮味が失われて、最初に撮ったものよりも劣るものが撮れてしまうので、他の仕事がすべて終わるこの時期まで、あえて放っておいた。
 メダカの撮影が終わると、次は水辺に出かける予定だ。渓谷の紅葉を撮影して、ヤマメやイワナ(ゴギ)の産卵行動を観察する。
 地上で紅葉のシーズンが終わる頃、今度は沢の流れに運ばれた落ち葉が淵につもり、水中が、見事な枯葉の時期を迎える。その様を、水中から撮影する予定も組んでいる。

 今シーズンは、渓流魚たちの産卵行動を撮影したかったのだが、残念なことに準備ができていない。何と言っても水中の出来事であり、人前では見せてくれないであろう行動なので、水中カメラとリモコン操作を併用してシャッターを押すことになる。
 そして、そのための機材の改造や準備には、それなりの時間とお金がかかる。が、今シーズンは、仕事の都合で時間が取れなかったのと、デジカメに夢中になり過ぎて、お金を使い果たしてしまったので諦めるしかない。
 ただ単に産卵を撮影するのは、きっとお金をかけなくても出来るだろうが、ここぞ!と思う場所にカメラを沈めて絵にするためには、やはり十分な機材が必要になる。渓流での撮影は僕にとって趣味なので、コストを考えずに撮りたい。
 また渓流の写真は、地方で撮ったものだからと、地方の出版社で本にするのではなくて、当たり前に全国の書店に本が並ぶように・・・と、考えている。福岡県にも小さな出版社があり、なかなか面白い本を出してはいるが、どこか「地方だから」という甘さのようなものがあり、そうした出版は、アマチュアで一生懸命撮っている人たちの領域なのかな〜と感じる。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2004年10月分


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